わが師匠 レーリヒ一家との出会い(シーナ・フォスディック氏の日記)

 ニコライ・レーリヒはさらに二度、ニューヨークへ来た。シーナはニコライとの交流から受けた印象と、彼の霊的指導および組織の活動への経営上の指導を観察して受けた印象を、詳細に記録した。そしてその後の1928年、彼女とフランシス・グラントは、探検旅行を本にする取り組みのために、ダージリンにいるレーリヒ夫妻を訪れた。
 残念なことに1930年代の中ごろ、米国におけるレーリヒの団体の広範囲な文化的・教育的仕事の運営に加え、南北アメリカの国際レーリヒ条約の制定がうまくいっていたが、厳しく厄介な年月に取って変わった。その頃、経営と財務上の処理に力を注いでいた、グループ内の三人のメンバーが、レーリヒ夫妻を見捨て、そこにあるすべてのものと建物と美術品もろともに、まんまと美術館を奪い取り、組織全体の努力と仕事に賠償できない損害をもたらしたのだ。そしてその頃は、シーナの日記はーー同じようにレーリヒたちの往復書簡のすべてがーーこれらの問題で埋め尽くされていた。対審、個人的対立、偉大な損害と苦々しさで満ちていた。だが日記はなおも続き、新たな決定と、初めの目標へ向けた新たな仕事の始まりを明らかにする。

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 残念だがこの版に、何巻にもなる日記の全部を載せることはできない。そしてそれは多分、必要ない。実際の日記の記録は多くの情報を含んでおり、一般の読者はそれに関心がないだろうからだ。我々の意見は、こうした記録さえもレーリヒたちの遺産に興味ある人々や研究者たちに伝えられるべきだというものであったが、大量の本文から成るテキストはすべてこの本に含めることができないのだった。シーナとレーリヒ夫妻に直接交流のあった期間、最初の出会いから1934年の最後の別離までの期間に、記録を限定することを余儀なくされた。

 あるいはこの日記の内容の多くが、読者を当惑させるかもしれない。現実の人生はたいてい、予想した通りにはならないもので、新しく発見された実際の見聞はしばしば、私たちの誤った、すでに固まった精神的な着想を粉々に砕くのである。

 だから、例えば多くの人は、「生きた倫理の教え」を素晴らしいと思い、降霊術についてのエレナ・レーリヒの、最新の純粋に否定的な判断に基づく見地から、レーリヒ夫妻自らはもちろんそのような方法を人生であやうく用いようとすることなど決してないと確信する。だがまず忘れてはならないのは、あの世からの情報源(大多数の場合、完全につまらなく、間違った、闇のものですらある)を盲目的に信頼することに、大まかに関係づけられた現象として降霊術をひどく非難する一方で、エレナ・レーリヒは、真に高い情報源から媒体的手段を通して情報を受け取る実際の可能性を否定したことはなかった。彼女は自分の弟子たちへの手紙の中で繰り返し、偉大な師匠たちは、ご自身および精妙界にいる弟子たちを通しての両方の方法で、霊的に清い媒体を通して人々に高い教えの基礎を与える機会を利用しようとする、と言った。

 話を1921年に戻すと、シーナも、シーナの母のソフィア・シャフランも、神智学や他のどんな霊的な教えにもあまり関心がなかったことは特筆すべきことだ。唯一つながりのあった霊的な教えは、モーリスの深いカバラ研究であった。しかし1920年にレーリヒ夫妻と出会ってからは、それらへの関心が人生の本質的な部分となり、人生を大冒険に変えた。
  ニコライ・レーリヒが他界した後、シーナはそのことの詳細と深い気持ちを、短いエッセイ「師との出会い」(“Meeting My Master”)に書いた。

 「各個人の人生には、ある尋常でない、信じられない出来事が起こり、しばしばそれが全人生の進路を変えて夢にさえ見たことのない新しい方向に向けられるでしょう。その時にはこれまでの人生が終わり、新しい人生が始まるでしょう。
 それはまさに、私がニコライ・コンスタンチノヴィチ・レーリヒと会った日に起きたことです。……
  彼の知恵はこの世的であると同時に神聖なものでした。……彼が教えてくれたことは、とても全部は言葉に表せないでしょう。……つつましやかな感謝とともに、彼のことを、私に光の道と知識と人生の使命を示してくれた人と考えます。……途方もない霊的な宝をたくさん与えてくれたので、人々の人生が大いに豊かになりました。……
  私はこの人生という稀少な贈り物を与えられました。偉大な魂、大師と会い、その弟子となるのを許されるという人生を。
 心の中の言い表せない感謝とともに、彼の後について行きたいものです。わかっているのです、生命の永遠の流れの中で私は再び彼と会うだろうことを。」

 シーナに最初に会った時、私に詳細を話してくれた。シーナがいかに単純に師匠たちの存在、シャンバラの存在、大同胞団に仕えるレーリヒ夫妻が委ねられた使命について説明されたかについてを、だ。いつも私がこの話に驚くのは、そんなにも素早く簡単に、疑うことなく、彼らがその話を受け入れ、証拠や解説もなかったのに、科学的な傾向のある心と懐疑心を納得させることができたということである。
 その後にレーリヒ夫妻がシーナに会った時、彼らが霊的な仕事のためと、文化的な組織を設立するために、ここニューヨークに遣わされて来たことと、ここに到着する前にすでにこの仕事を実現するためすぐに集められるはずのグループのメンバーたちの名前を前もって知っていたことなどを聞かされた。レーリヒ夫妻が普通の方法でグループのメンバーを捜す必要がなかったのは驚異的である。もう彼らの周りにいたこれらの人々を、残るは集めるだけだった。これも興味深いことであるが、これらの選ばれた人たちは、詳しい神智学徒では全くなかった。彼らは少なくとも今生では、霊的・秘教的な科学の初学者であった。
 本格的な仕事が開始すると、レーリヒ夫妻は新しい弟子たちとの定期的な霊的会合をスタートさせた。それは毎週土曜日の晩か、時にはもっとひんぱんにあった。その会合で言われたことと起こったことはみな、シーナが日記に記録した。だがもちろん、ある出来事は公表できないし、それ故に記録されなかった。
 口頭でしか伝えられない事柄はあった。それらは生きた倫理(Living Ethics)(訳注:アグニ・ヨガの教えはこう呼ばれる)の「神聖な神話」の一部になった。
 おおよそ三年後、レーリヒ夫妻はインドに出発した。インドから、有名な中央アジアへの旅に出発するために。画家レーリヒの次男スヴェトスラフは、レーリヒ夫妻と仕事仲間たちがアメリカで設立した組織の経営に加わるため、すぐにニューヨークに引き返した。ニコライとエレナ・レーリヒに集められた仲間たちの仕事は、続いて行き、拡大して、彼ら自身が人生を築く場所のどこからでも経営を管理し続けた。この仕事については、老いた夫妻の何百通もの手紙から多くのことがすでに知られている。世界中、多くの言語と国々でそれらは出版された。
 シーナはずっと日記を書き続け、夢、伝言、会話、成された仕事を、その窮境と失敗も含めて記録した。それはレーリヒたちの霊的生活に関する珍しい情報と、レーリヒ運動の変遷を生き生きととらえた注目に値する記録であり、もしこれに記録されていなかったら、我々は知ることもないままだったであろう。これらの記録は我々にとって特別な価値がある。それは筆者が外部の人たちには知られないレーリヒたちの精神生活と活動の、そしてそれに加えてアメリカとロシアの両方における外的な仕事の最も重要な出来事のほとんどすべての、直接の目撃者だからだ。例えば1926年の夏に、シーナはレーリヒ夫妻とともに、信じられないほど重要な時期をモスクワで過ごした。また、彼らとアルタイへ旅をし、次の年にはモンゴル行きに加わり、チベットへの探検旅行の出発までモンゴルにとどまっていた。シーナは、師匠たちの指導のもとに行われた仕事のそもそもの始めから、旅においてしたことと経験のほぼすべてを、レーリヒ夫妻と分かち合った唯一の人であった。
 

 のちにシナイダ・グリゴリアエナ・フォスディックという名になった少女は、およそ1889年頃オデッサ(訳注:ウクライナ南部の港市)で、シーナ・シャフランとして生まれた。幼い頃すでに音楽の才能を現し、母はこの子に、まさに最善の音楽教育を何でも確実に受けさせた。そして実に、習い始めて最初の年に非凡な才能を示し、すぐにお客さんの前で演奏していた。高等学校をまだ十二歳で卒業し、母は彼女をライプツィヒへ連れて行き、次にベルリンへ連れて行った。ベルリンで彼女は有名なピアニストであり教師であったレオポルド・ゴドフスキーから学んだ。しばらくしてゴドフスキーと最もすぐれた教え子の一人シーナ・シャフランは、ウィーンへ行った。ウィーンでゴドフスキーは、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックのウィーンピアノ学校の校長職を引き受けたのだ。
 ゴドフスキーの学校を卒業後、シーナはしばらくヨーロッパで演奏をし、そして彼女の父の没後1912年に、彼女と母はアメリカへ行くことに決めた。ベルリンにいる間に、シーナは同級生のマウリス・リヒトマンと出会い、恋に落ちた。二人は結婚し、一緒にニューヨークへ移り住んだ。ゴドフスキーもアメリカへ移り、リヒトマンがピアノを教え始めたニューヨークで、ピアノ協会を設立した。のちにリヒトマン夫妻は自分たちのピアノ学校を設立した。
 レーリヒ夫妻と出会った後の1921年、リヒトマン・ピアノ学校と、レーリヒ夫妻の設立したスクール・オブ・ザ・アーツを合併させる決定がなされた。しばらくして、シーナ・リヒトマンはレーリヒ夫妻が設立した文化的・教育的機関に加わり、ピアノの演奏法を教えた。のちに彼女はニコライ・レーリヒ美術館の副館長かつディレクターになった。
 シーナ・リヒトマンはレーリヒ夫妻の有名な中央アジア探検に、アルタイ山脈とモンゴルへ行く間参加し、ニューヨークへ戻って来ながら、婦人クラブ、国際会議、芸術関係の協会、図書館、さまざまな文化的組織に、広く講演した。国際言語組合、メトロポリタン美術館、アメリカ博物館、国際地理学協会、「炎」(Flamma)協会の現役会員になった。
 シーナは生涯ずっと、ソビエト連邦も含めて世界中にいる協力者や友人たちとの文通を続けた。彼らの中にはアイデアや人生を捧げた人たちがいて、レーリヒ夫妻の仕事は彼らから特別な注目と支えを受けたのだった。あの困難な時代に多くの人は、本当に精神的な支援を必要としていた。シーナは美術館で毎日働き、館の活動を運営し、アグニ・ヨガ協会の定期的な集会を行ない、惜しまず訪問者に美術館を案内した。

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